手長神社さま
- 2018.10.30 Tuesday
- 18:25
ご縁を頂き、長野の手長神社様に参拝に行って参りました。
御祈祷の最後に、宮司様が横笛を奏でてくださいました。
風の音と相まって、聞かせて頂いている私たちまでその「気」の中に溶け込んでいくようでした。
素晴らしい体験をさせて頂きました。
ここからまた、K先生の夢の続きが始まります。
ご縁を頂き、長野の手長神社様に参拝に行って参りました。
御祈祷の最後に、宮司様が横笛を奏でてくださいました。
風の音と相まって、聞かせて頂いている私たちまでその「気」の中に溶け込んでいくようでした。
素晴らしい体験をさせて頂きました。
ここからまた、K先生の夢の続きが始まります。
ずう〜〜っと昔、加藤清正が豊臣秀吉の家臣であったころ、河原で観音様にそっくりな石をみつけました。
清正はそれをお守りとしていつも身につけていたそうです。
1592年、清正は秀吉の命により朝鮮に出兵しましたが、その時、その観音様を唐津のあるお寺さんに預けて出かけました。
そしてその観音様にそっくりな石は現在もそのお寺さんに残っています。
もう10年近く前のことでしょうか。K先生のところにそのお寺さんから「観音様を彫ってほしい」という依頼がありました。
なんでもその観音様の背中に、「清正がお守りとして持っていた観音様にそっくりな石を納めたい」ということでした。
そして、間もなくその石を背中に納めた観音様がまつられました。
その時、現れた観音様は、手を隠していらっしゃいます。
園田のところにいらっしゃるのと同じ白衣観音様なのですが、唐津の観音様は、手を白衣で隠していらっしゃいます。
当時、その意味をそのお寺さんのご住職が話してくださったそうですが、その観音様は「無限大の手」(数えることのできない)を隠していらっしゃるということ。
だから、この観音様はそれだけ大勢の人を助けていかなくてはいけないんだと。
たまたま、同じ観音様がK先生を通して届いた方がいらっしゃいました。
きっとその方には、そんなお役目があるのだと思います。
やはり、ちゃんと意味があったのですね。(*^^*)
...のモデルになった岩手県大槌町の小さな島。
あの津波の日、この島の松の上まで波が被ったのですが、それでも流されずに残った弁財天様を津波のあった直後、K先生が修復なさいました。
もちろん、ボランティアです。
先日、そこであったお祭りに呼ばれ、先生は行ってらしたそうです。
また、修理の仏様を預かっていらしたとのこと。
本当に頭が下がります。
中々足下にも及びません。
あ、比べるのも申し訳ないような......
様々なメッセージと共に現れた地神さまを納めさせて頂いてから、停滞していた事象がスムーズに「動き始めた」というお知らせを頂きました。
それをK先生にお伝えしたところ、
「やっぱり神様はいらっしゃるんですよね。」と。
あの方にそうおっしゃっていただくほど説得力のあることはない……と思いながら、
今回は一緒に身近に感じさせて頂いたことに、心より感謝です。
このお彼岸の連休中、K先生が急がされて(お客様からではありません)彫っていらした「神像」が、納まるべきところに納まりました。
記憶にある方もいらっしゃると思いますが、K先生が忘年会の席でお話されていた、あの「七匹の蛇を頭にのせた像(夢にお姿が現れた)」のことです。
〈あちら〉から急がされ、寝る時間を削って作成にあたっていらっしゃる間、行かなくてはならないはずであった岩手からは、何故か「今回はいいです」と言っていただき、高知まで届けるはずであった『北辰一刀流兵法・千葉道場』の看板も先方が取りに来てくださり、伺わずに済んだそうです。
…でなければ、間に合う事にはなりませんでした。
それほど、あちらの世界の方々も、この日に間に合わせていただくために必死でいらしたのでしょう。
神業ともいえる速さで彫り上げられたこのたびの「神像」は、どうしてもこの日である必要があったようです。
無事にお納めすることができると、それまでの大変さはスッと消え、次のお仕事に向かわれるとのこと。
縦線も横線も存在しない、瞬間瞬間が見事な天馳星の世界です……
久々に、「K先生徒然……」です。
ある時、「『しがらみ』というのは、死が絡むから『しがらみ』なんです。」と。
私たちはよく、「しがらみの中で生きている」などという使い方をしますが、つまりそれは『命がけ』なのでした。
そんな中で生きていると、その方にとってはそれが当たり前になってくる。
「抜けられるわけがないじゃないの」などとのお叱りの声が聞こえてきそうですが、良い悪いを言っているわけではありません。
算命学では、人に与えられた寿命は120年で、そこからストレスが与えられたり、異常に運勢を伸ばした、働きすぎた、という後天的な影響でその寿命が差し引かれると考えます。
要は、その「差し引かれる」ということに本人が納得いけば、良い人生なのだと思います。
今朝、久しぶりにTVに小沢健二さんが出演なさっていて、彼が「一度だけの人生なので」とおっしゃっていたのが、耳に残っています。
「やり直し」はできない人生。たった「今」、「現在」も時間が経過していけばそれは過去になっていきます。
「誰かの犠牲」の人生であっても「この人のために」と自分自身納得がいけば、自分にとっての大義名分が成り立ち、そこに満足感を得られるのでしょう。
それを思うのは自分です。他の人にはわからない。
そう、五徳の「福」は自分の思う「満足感」なのです。
……と、ちょっと横道それましたが、徒然…プラス「園田の独り言」でした。(*^^*)
それではまた。